インタビュー記事「うちに秘めたる想いを舞に昇華させる」

元記事 https://www.iec.co.jp/media/corner/jpn-tatsujin/01-ginkenginbu/

語り手:元取締役 荒井龍凰  取材日:

--吟剣詩舞という言葉はあまり聞きなれませんが、どのような芸能なのでしょうか?

 

吟剣詩舞は、吟詠吟舞ともいうのですが、3つの芸能の総称になります。吟剣詩舞の「吟」は、詩吟や吟詠とも言われていて、一般的には詩吟のほうが聞き馴染みがあるかと思います。武士が戦国時代や幕末の頃に、自分の志や熱い想いを漢詩に起こしたり、和歌に起こしたりしたものを、ただ口ずさむのではなく、詠い上げていくという風にした芸能が、詩吟であり吟詠です。

 

吟剣詩舞の「剣詩舞」というところ。これは剣舞と詩舞に分かれていきます。剣舞というのは、詩吟に合わせて、日本刀を使い力強く迫力のある舞いをするというものです。詩舞というものは、刀では表現できない自然の情景や恋の話、家族や故郷への想いといったものを、扇子を使って柔らかく表現するものです。

 

これら詩吟、剣舞、詩舞の総称として、吟剣詩舞という言葉を使っています。

 

 

--歴史的にも長いもの?

 

吟剣詩舞は舞台芸能のひとつなのですが、芸能として大成したのは江戸末期から明治にかけてです。その源流としては、鎌倉時代あたりから台頭してきた武士の存在が大きくあります。

 

合戦の前に自らの気持ちを鼓舞するため、型を決めて舞っていた。それが剣舞の源流とされていますが、そのなかでは、自分の信条としての慈しみの心であったり、正しい価値観であったり、いわゆる武士道的な精神を舞に昇華させていたのです。外見上は、刀を持って勇ましく舞っているのですが、うちに秘めたる想いというのは、武士の師弟関係であったり、命がけで君主を守るとか、信念に逸脱しないように生きるとか、そういうことです。それらは、剣舞師に求められる内なる想いでもあります。

 

 

--戦いに挑むにあたり、士気高揚だけではなくて、自分の信念を確認しようと。そのような考えを持つということは、やはり多少なり位の高い方が行っていたのでしょうか?

 

もともとは武士が舞っていました。たとえば、明治維新になる前、ペリー来航という事件がありましたが、そうしたなかで幕末の志士たちが日本の未来について考えるようなときに、多くの詩を残して刀で舞っていました。

 

明治維新になるくらいには、廃刀令で刀が使えなくなってしまいます。すると、もともと武士の身分だった人たちが「職を失うよね」ということで、撃剣(げっけん)興行という、剣術の試合を見せる興行を作りました。そこで行われる剣術の試合の合間に、剣舞としての型を、武士だけではなく大衆に向けて披露したことから、剣舞がどんどん芸能化されていきました。

 

 

--それが、どのように現代に至ったのでしょうか?

 

明治維新のときは、武骨な剣舞でして、まだまだ舞台芸能として大成しているとはいえなかった。能や日本舞踊に比べると、荒々しさが残るものだったのですが、大衆に見せるなかで、徐々に変わっていきました。着物は、道着から、紋付き袴という様式になり、当時は裸足でやっていましたけど、現代では足袋を履くのは当たり前になっている。やはり、時代の流れとともに、大正、昭和初期、昭和中期、後期という流れで、舞としての芸術性が、ほかの芸能に影響されながら高まってきました。

 

 

18歳で師範免許を取り、20歳で後継者に

 

--担い手となる方は、ある程度いたのでしょうか?

 

明治維新が終わって、武士の階級ではなかった人が目にすることになり、いっきにそこで広まります。明治後期から昭和初期にかけて、ものすごい勢いで増えていきました。私の曾祖母が吟詠吟舞錦凰流という流派の創流者なのですが、いわゆる大衆に見せた頃、一番栄えていた頃に、創流していますので、昭和の後期くらいには、最も大きい団体に所属していた、愛好者は300万人くらいいたといわれています。

 

それが、徐々に減っていきました。当時としては、武士の世界でやっていたものが見られるという新鮮味があったと思いますが、いまではYoutubeを見れば海外の映像が見られますし、Instagramできれいな写真も見られる。そういう時代では、武士がやってきあというだけでは、新鮮味に欠けてなかなか難しいのが現状です。

 

 

--荒井さんが三代目を務める錦凰流について教えてください。

 

錦凰流は、初代宗家が創流した時には、当時としては珍しく、詩吟・剣舞・詩舞という3つすべてが行えました。そのような流派は東日本には珍しく、舞のお弟子さんもいれば吟のお弟子さんもいるというように賑わっていました。

 

ただ、やはり高齢化とともにですね、続けられない方や亡くなられてしまう方が出てきて、減少傾向にありました。そうした最中、私が後継者になったのが20歳のときです。師範免許を取ったのは18歳のときでしたが、その頃から「この状況をなんとかせねば」と考え、高校で部活を立ち上げたり、大学でサークルを作ったりと、試行錯誤をしていました。

 

それが現在に至るのですが、いまこの教室では、最年少で4歳。あとは、20代から70代まで、幅広い年齢層の方がいらっしゃっています。まだまだ数人ではありますが、徐々に錦凰流も若手が入ってきたな、という感じです。

 

 

--4歳の子が行うには、ずいぶん難しいようにも思いますが。みなさん、どういった興味で始められるのでしょうか?

 

たとえば4歳の方は女の子なのですが、なにか和の習い事をさせたいと親御さんが考えて。よくあるのは日本舞踊ですが、それでは他のお子さんもやっているし、なにか違ったことをさせてみたい、という思いがあって、でも大きく逸脱するのもよくないということで、少し難しいけど剣舞をやってみようか、ということで連絡をいただきました。

 

 

 

 

「自分が自分が」という想いが指導の邪魔をする

 

--荒井さんご自身も3歳の頃に始められたと伺いました。

 

そうですね。ただ、3歳が初舞台なんで、あまり覚えてはいません。お稽古場で「船に乗る」という振付があって、それを行ったのですが、そのときに「うまいわね」と褒められた記憶はあります。こどもなので、動けば拍手がもらえるという感じだったかもしれません。ほかに、舞台がどうだったかという記憶はないですね。

 

 

--その後、学生時代には部活やサークルを通して広めようとされていましたが、その間も、ずっと打ち込んでいたのでしょうか? あるいは、「もういいや」と思うようなときも?

 

いくら好きな仕事でも、行きたくない日があるのと同じです。お稽古に行きたくない、遊んでいるほうが楽しいということは、もちろんありました。それでも続けて来られたのは、やはり家の存在が大きかったと思います。

 

誰だって中学生や高校生くらいになると、両親に対して「うるせえな」とか言ってしまうと思います。言葉は選びますが、僕にも親の存在を恥ずかしく思う時期はありました。ただ、それでも踊りの話であれば、唯一対等に話ができました。たとえば、運動会を見に来てはほしくないけど、舞台はちゃんと見に来てほしいし稽古もつけてほしい、というようなことが、どこかしらにありました。

 

あとは、家で見るテレビは歌舞伎、日本舞踊などの舞踊映像というのが多かったので、そこでずっと会話をしてきたことが、思春期の頃に匙を投げるといったことを、少しは緩和してくれたのかと思いますね。

 

 

--広める、指導するという立場では、どのようなことがありましたか?

 

はじめは、高校生で師範免許を取ったときに、詩吟と詩舞を教えていたのですが、当時は学校のグループで大将になりたいくらいの気持ちです。「おれはお前らに教えてやってるんだから先生なんだぞ」といった、お山の大将でいたいといった気持ちで。そんな感じなので、ちゃんとした師弟関係はできず、そのまま卒業してしまいました。

 

大学に入ってからも、指導というよりは、まだ「自分がうまくなりたい、自分が拍手をもらいたい」といったふうに「自分が自分が」というところがありました。指導する場合も、自分基準で物事を考えしまって。「おれはお稽古ならこれくらい必死でやるんだ。だからお前らも、やるからには同じレベルでこいよ」というスタンスになるのですが、なかなか伝わらずに四苦八苦していました。最初のうちは人に指導するということが難しかった。それが20代前半までのことで、随分思い悩みました。

 

それが変わってきたのは社会人になってからです。会社のなかで詩吟部を立ち上げたのですが、そこで教えるのは10も20も年齢が上の人たちです。新入社員が入社20年目や40何歳の中堅どころに指導するのですから、言葉遣いも気を付けなければいけません。指導のスタンスにしても、「やるからにはちゃんとやれよ」というのではなくて、相手に合わせて、一般的な趣味程度のレベルで教えるようになっていきました。それでも自分の気持ちが先走って、顔に出たり、口調に出ることはありましたけど(笑)

 

 

 

「アイム・サムライ・フロム・トーキョー」

 

--現在は、お弟子さんを取ったりされていますので、意識も変わってきたということですね。

 

ようやく今、外国人のお客さんたちに指導して、日本人のお弟子さんにもお稽古していくなかで、自分が担うべき役割というのは、「自分が拍手されたい、称賛されたい」じゃなくて、「剣舞の本質を広める」というところにシフトさせていかなければならないと考えるようになりました。

 

 

--それはなにかきっかけがあったのでしょうか? 大学時代には、海外で公演された経験もあるとお聞きしましたが。

 

大学生のとき、慶應大学の国際センターというところの留学生をもっている先生と縁があり、日本の文化に触れさせるため留学生に教えてみてほしいと、依頼を受けました。英語ができなかったのでプレゼン自体はひどかったのですが、演舞だけはちゃんとしたものを見せようと。すると、「気合の入った演舞はすごかった」という評価をもらって、翌年も慶応大学で講義する機会をもらいました。そうしたことがきっかけで、「留学生にこれだけ楽しんでもらい、感動が与えられる芸能だったら、じゃあ海外にいこう」なんて考えるようになり、海外に向けてやっていきたいなという思いが芽生えました。

 

24歳のときにはじめてオックスフォード大学で講義をすることになります。いきなりなぜ、というところですが、慶應大学へ教えにいったときに、たまたまオックスフォード大学からの留学生がいて、「うちの大学でもぜひやってほしい」と言われて、行くことになりました。

 

そこで衝撃を受けたのは、その留学生に「もちろん何日かくるんでしょ? じゃあ、オックスフォード以外でもやればいいじゃん」と当然のように言われたことです。僕は「君がいるからオックスフォードでできるんであって、だれも知り合いがいない他でできるわけないじゃん」と答えたのですが、その子は「メールは無料だし、国際電話も大した額じゃないし、端から声をかけてみたらいいんじゃない?」と言うわけです。

 

日本国内だとノンアポで行くのはご法度という考えがありますが、そうではなくて。これが本当にグローバルスタンダードというか、世界を舞台に生きるというのはこういうことなのかな、と思いました。

 

 

--実際にうまくいきましたか?

 

連絡すると、意外にメールが返ってきました。ほとんどダメでしたし、英語がわからないと言われたこともありましたが、最終的にはオックスフォードのほかにプラス2校で実施できました。小さな成功体験だったのですが、そこのあたりから、「動けば、なにか成果につながるんだ」ということがわかってきました。

 

次に、自分の力試しの目的もあわせて、誰も知り合いがいない都市でやってみようと思い、オーストラリアのシドニーに行くことを決めました。25歳のときのことです。行く前に3つの目標を立てました。1つ目は、行政関連と一緒に仕事をして演舞する。2つ目は、学校の教育機関で歴史を説明する。3つ目は、路上パフォーマンスを含め、剣舞を知らない現地在住の人に見てもらえる機会を増やす。というものです。何も伝手がないところに行ったので、けっこう悲惨な状態でしたね(笑)

 

行政に関しては、シドニーの日本人会にメールを送ったら知り合いを紹介してもらえて、地元のフェスティバルでできることになったのですが、そこで舞をしたら大使館の人がたまたまいて、「今度大使館でイベントやるから出てみなさい」と誘われ、大使館講演をすることができました。

 

 

--順調でしたね。

 

ただ、教育機関やカフェでの演舞はとても大変でした。メールをしても返事が来ないので、「もうやるしかない」と腹をくくって。この恰好(紋付き袴)に刀を差してシドニー大学へ出向き、学生に日本語やオリエンタルソサエティ関連の各部がないかを聞いたりして。それで教授室を、端からノックして「アイム・サムライ・フロム・トーキョー」みたいなことを言って、演舞する時間がほしいと伝えていきました。すると、3日目くらいにたまたま日本人の先生と会うことができた。始めは有志の学生に向けて、次は大学の授業で、次は教授会で、最終的にはシドニーにある大学の教授陣が集まるセレモニーで、という感じで大きくなっていきました。

 

カフェやレストラン巡りも同じですね。「こうなったら、しらみつぶしの戦法でいくしかない」と思って、東京でいうセンター街みたいなところを同じ格好で歩き、300件くらい店を回りました。そちらは、数件くらいやらせてもらうことができました。

 

これがシドニーでの成果なのですが、そんな感じで必死にやっているときは、「拍手されたい」とか「自分の舞を世の中に見せつけたい」という感情は微塵もなく、「どうしたらここでやらせてもらえるか」ということしか頭になかった。そうしていると、だんだん自己顕示欲の強い自分と乖離していって、「広める、広める」と毎日言っているうちに、広める活動に専念できるようになっていきました。

 

 

 

 

素直さが人を惹きつけ、強い信念が人を従える

 

--荒井さんのご経験は、自分が立てた目標をいかに達成するのか、ということの成功例だと思います。振り返ってみて、成功の秘訣は何だったと思われますか?

 

いちばん大きなところは、家族と友人の支えです。今の時代、海外にいても簡単に連絡が取れるので。その友人は中高の同級生で、詩吟部を立ち上げたときの仲間です。けっこう辛辣なことを言ってくる友人で、普通だったら、海外でつらい状況にあると言えば、「大丈夫だよ。いつか成功するって」とか言ってもらえそうなものですが、その友人は「お前の英語力でよく海外に行ったよな」とか「受け入れてもらえるわけないよ」とか。「なんてことを言うんだ!」といつも言い合いになるんですけど、人間関係が壊れることなく、いまも関係は続いていて。家族も同じですね。

 

 

--厳しいことを言い合える関係が、逆に、気持ちをピリッとさせてくれるのでしょうね。

 

あとは、海外に行く前に、尊敬している先生と会うことができました。その先生に「自助自立して、自分の頭で考えて行動しなさい」とアドバイスを受けました。「でも、もしできなかったら」みたいなことを言うときも、「初心に帰って、自分が本当にやりたいことはなんなのかを考えなさい。そして、バルコニーへ駆けあがって、自分の状況を俯瞰するといい。」ということを教えてもらった。これは大きかったですね。

 

このような、周りの精神的な支えが大きかったと思います。

 

 

--仲間になってくれる人、支えになってくれる人がいたおかげ、ということですが、なかなか貴重な存在だとも思います。そうした仲間はどのようにできていったのか、その理由はなにか思い当たりますか?

 

けっこうよく聞かれます。シドニーであった子たちなんて、いまは仕事もしているけど、チラシを作る時に好意で翻訳を手伝ってくれたり。ほかにも、「こういう人、いないかな」と探しているときに、「僕の知り合いにいるよ」とつなげてくれたりとか、そうしたことは本当に多いです。人に恵まれているなと思います。

 

じゃあなにか戦略的に、と言うと、まったくもって検討がつかない。強いて言うのであれば、「そういうことを意識しないこと」というのが答えなのかもしれません。「この人たちになにかやってもらおう」と思ったり、「この人はお子さんがいるから弟子にしてやろう」という感じだったり、下心ありますよという感じが少しでも伝わったら、信頼関係は築けないんじゃないかなと思います。

 

 

--ほかに思い当たることはありますか?

 

正義感が強すぎるというか、伝統芸能や剣舞を広めたいという強い気持ちが根本にあるところ。これは短所に近いところでもあります。組織のなかに年齢層の高い先輩方がいて、そういう人たちに想いをぶつけると、「お前生意気だな」と言われてしまう。

 

ですが、そう言われても「それって違うよね」と、基本的にぶれずに生きてきた。強い信念を持っているというところは、基本的にぶれません。そういう人たちに迎合して自分の意に反したことを言えるかというと、性格的にあまり言えないタイプなので。

 

どんな性格にも光と影があるようなものです。光の部分としては、「僕はこれをします!」と公言したことで、多くの人がついて来てくれるというところ。影の部分でいえば、世渡りが下手ということになると思う。どちらがいいというか、そこらへんの塩梅かな、と思います。

 

 

芯の強さを育てた家庭環境

 

--ビジネスの世界でも、「もっと芯を強く持ち、主体的に動いてほしい。チャレンジしてほしい」といった悩みをよく聞きます。芯の強さはどのように育つのかということは、多くの方の関心事だと思いますが、荒井さんの場合はいかがでしたか?

 

「これは親です」というのが回答です。うちの両親や宗家である祖母。本人たちに言うと、「いや、そうじゃない。こんな我が強く育てた覚えはない」と答えると思いますが(笑)

 

当時はそれが普通だと思っていましたが、小さい頃からこども扱いはされていませんでしたね。たとえば、お稽古場で年配の方たちと一緒にずっと座らされていると、こどもだから飽きてきます。そこで「ゲームしたい、本読みたい」と言うのですが、「ダメ。他の人たちは静かにお稽古しているでしょう」と言われる。そんなの小学生には無理だと思うのですが、聞いてもらえない。

 

祝賀会のような場所に同席するときも、夜遅くて眠かったり、アニメが見たいと思っていても、きちんと対応するよう教えられる。こうしたところで、小さいころからこども扱いされなかったというのが、非常に大きい要素かと思います。

 

 

--ほかの大人の方と同じように扱われる環境だったのですね。

 

そうですね。ほかにも、一般の家と違うと思った出来事があります。普通の家だと、たとえば自分のことが小さい雑誌に載ったとか言うだけで、もう何十冊もそれを買ってきて「うちの息子出たんです」とほめそやす。そうした家庭環境が、うちには皆無で。シドニーに行ったときに現地の新聞に大きく載ったので、10部くらい買って持ち帰ったんです。幹部のお弟子さんたちはとても大喜びしてくれたのですが、うちは違う。宗家の祖母も自宅も、あまり反応はなく、一週間くらい経つと新聞自体を紛失していた。

 

 

--同じ舞台に立つ対等な存在として、ダメだしするし、甘やかしたりもしない。

 

そうですね。ただ、困ったときには助けてくれる。品川で舞台があったときのことなのですが、前の日の晩に一時間離れた自宅から移動しているときに、電車のなかに事務所のカギと衣装を忘れてしまいました。なぜか着くまでは気が付かず、事務所についたときに「うわー」と思って。鍵は知人に預けていたスペアがあったのでなんとかなったのですが、明日使う衣装がないという状態でした。24時は過ぎていたと思うのですが、自宅に連絡したら、「演題に見合うものを用意しておく。明日手ぶらでいいからきなさい」と言って、それから衣装を選定して、当日に間に合うように持ってきてくれた。

 

そういうふうに、口で褒めることはないけれど、私がやりたいといったことに対しては「100%応援するよ」という想いが行動で現れていることが、一番の信頼関係になりました。

 

 

 

3つの原則が揃ってこそ学びや成長となる

 

--最後に、「学ぶ」ということは荒井さんにとってどういうことか教えてください。

 

「自分の頭で考えて、自分で判断して、自分で行動していく」という三原則を、私は割と若いころから守っていました。

 

さきほどお話した尊敬する先生にいろいろ話を聞いてもらっていたのですが、そのなかで「自助自立」ということをすごく言われました。最初はピンとこなかったのですが、ようするに、「自分の頭で考えて、自分で判断して、自分の足で行動する」という3つの原則か、と自分のなかで消化しました。

 

「学ぶ」ということになると、3つの原則のうちどこかしらが抜けていると、成長につながらないと思うんですね。たとえば、英語の勉強をしようと考えたとして、じゃあどうするのというときに、「仕事が忙しいから」といってやめたら学びにつながらない。「夜7時から9時までテレビやYoutubeを見ている」といった時間があったら、それを削るという決断をしなければならない。さらに、そう決断してテレビもYoutubeも観なかったけれど、勉強は億劫だからと言って行動につながらなかったら、学びにはなりません。

 

 

--若い頃から、この3つの原則に従って行動してきたのでしょうか?

 

いまでは3つの原則になっていますが、ちょっと前までは「自分で考えて、行動する」というところでした。それが、ここ3年、5年で海外に出て、普及させたいと考えていくときに変わってきて。判断、決断というところがボトルネックで腰が重いと感じました。

 

「いま会社に所属しているけど、これを辞めたら固定給がなくなる。どうしよう」とばかり考えていてもダメで、どこかで決断しなければならない。決断をして会社を辞めてしまったら、あるいは、航空券をとってしまったら、もう行かざるを得ない。だから行動に移せるようになる。行動した先でもピンチにはなるんですが、「どうしたらいんんだ」「こうしたらいいんじゃないかな」「でもこれするとなー」みたいに考えてばかりで腰が重いのが、やはり一番のネックになっていて。それで「自分で判断して」ということを重要に思い、これを加えて3原則にしました。

 

 

--ご経験を経て、学びや実行に必要な要素が整理されてきたのですね。

 

あとは、補助的なところでいえば、尊敬できる人がいるというのは大切です。自分の尊敬してる先生に踊りや経営の才能があるよと言われたことがあるのですが、「この人からこういう風に言われた」というのがあるからこそ、何が起きてもも大丈夫と思えます。そういうことろはある。

 

 

--そうした存在が、学びを積み重ねたり、挑戦を続けていく中で、支えになるということですね。それでは、本日は長い時間ありがとうございました。

 

 

2018年7月24日 公開